新・古美術 【陶 陶】 |
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「不屈畫集」より
1890年 明治23年 4月24日東京浅草区にて出生。
1905年 明治38年 不同舎に入門、小山正太郎画伯に師事。
1906年 明治39年 太平洋画研究所に入所。中村不折画伯に師事。
1907年 明治40年 両親、郷里岐阜県に移住。○○5年間、仝研究所の事務監督、兼助教授として住み込。
1909年 明治42年 19才の秋、第2回文展に初入選「泉」
1911年 明治44年 夏、郷里の両親を訪ね「父の像」を描き第4回文展に出品。
1912年 大正元年 不同舎入門以来の親友 和田基夫君死去。
その后、遺族の希望に依り約3ヶ月間、渋谷の遺宅に同居。又。
仝年、関西に旅行し、法隆寺金堂の壁画の前に立つ。
1913年 大正02年 不折画伯の紹介に依り、早大教授 桂五十郎氏の陶磁器コレクションの図録を5ヶ年間に互って
描く事になった。
又その頃発足当時の芸術座の女優 松井須麗子の像を描くチャンスに恵まれた。
「サロメ」は帝劇の楽屋での作品。
1917年 大正06年 兄 直綱死去、唯一の兄弟であった。又再度法隆寺金堂の壁画の前に立つ。
両親を東京に招いた。
1918年 大正07年 體c福松氏の仲介で川崎市上平間西福寺の娘 渡辺きみ子と結婚。
1920年 大正09年 長男 敬生る。
1921年 大正10年 醒夢死去。
1923年 大正12年 次男 操生る。9月1日関東大震災にあったが滝野川中里町の住家は無事であった。
1924年 大正13年 母を中里の家に残し、神奈川県川崎市に移住。
1925年 大正14年 太平洋美術学校教授就任。
三男 修生る。
川崎市渡辺病院長の援助を得て、札幌市今井呉服店で、初めての個展開催、その后函館、小樽、
帯廣、釧路、野付牛、岩内の各地で個展、室蘭では、工博蒔田宗次氏の知遇を得。
聖徳太子奉賛展、「裸婦」60号を出品。
帝展第3回展出品作「足を洗う裸女」は特撰候補であったと、審査員石川寅治氏から聴く。
1926年 昭和 元年 仙台の友人渋谷栄太郎君の後援で、仙台市にて個展。
1927年 昭和02年 母 くに子 死去。
川崎市より武蔵野平野(板橋区富士見台)に移る。
1928年 昭和03年 光安浩行君の後援で、博多玉屋で個展。
1929年 昭和04年 樺太に旅行、大泊、豊原、野田、知取、真岡、東須取の各地をスケッチ。
翌年も同地に渡り清水代議士一行と共に海驢島に行きオットセイの生態をスケッチ。その頃、
京城から上京して来た姪の話から、朝鮮旅行の夢を描き始めた。
1932年 昭和07年 土岐○氏から京城丁字屋社長小林源六氏。
京城銀行取締役岸氏、釜山の迫間一男氏の三氏にあてた紹介状を持って待望の朝鮮旅行に出発、
長谷部巌氏宅に依り、丁字屋で個展を開催。
それ以来 朝鮮の風物に魅せられ、10数年間にわたり朝鮮の南北を旅行、永ければ1年の内8ヶ月も
内地には帰らなかった。従って、作品も朝鮮に関したものが多くなった。
平壌の植田早太氏、兼二浦日鐵の武藤浦枝氏、咸興の轟局長各位の後援を得た。
1933年 昭和08年 文展無鑑査。不折画伯の還暦記念像を彫刻家堀進二氏の協力を得て、長野県長野市岡崎公園、
及東京都台東区中根岸、不折画伯庭内の書道博物館前に設立。
東京勧業平和博の出品作品「鏡を持つ裸婦」撮影禁止さる
1934年 昭和09年 新義州(北朝鮮)より、後に東光会会員となった、長根翠孃と安東(中国北部)までスケッチ旅行。
大連満鉄本社クラブで個展開催。
金州城内の満人の家に民宿を試みる。
捶順では、三好正直君のお兄さん紹介により、捶順炭鉱社内で個展。捶順炭鉱ホテルには、第8回
帝展出品作「横たわれる裸婦」30号、「仝鉱のスキップ」30号○他現地でのスケッチ数点を買い上げ
られた。
豊島区椎名町に移る。
1938年 昭和13年 13年、14年の2回、陸軍省嘱託従軍画家として、吉田博画伯と共に中国の南北各地をスケッチ旅行。
帰国后上野松坂屋、日本橋高島屋及び、大阪三越に於いて、帯華写生展を催し「蘇州の朝」北白川
宮家買上。
従軍中蘇州の宿で、石井柏亭画伯に逢い、不折画伯の喜寿記念画集のための傳記の執筆方を
依頼承諾を得た。
紀元2600年記念展に「江南の春」100号出品、モチーフは蘇州の名園。
生産美術展出品作「製鐡敢闘」は室蘭製鉄所の平炉のエチュードより制作。
1939年 昭和14年 陸軍美術展に「楓橋警備」80号を出品、仝美術協会会員となる。
仝年、墨洋会設立、不折先生、石井博亭、吉田博画伯等と共に、上野松坂屋に於いて展覧会を開催。
1943年 昭和18年 太平洋美術学校の二代目校長は石井柏亭氏にする様にとの遺言もむなしく、石川寅治氏がなり、
三氏はまもなく脱会され、示現会を設立された。
1945年 昭和20年 太平洋戦争末期、南鮮に疎開。
仝年暮 引き揚げ者として内地に帰還、母校、中里町の家、作品も多数戦火で焼失した。
千葉県長生郡太東村の農家一隅に居住し、絵筆と鍬を交互に持つ。
1947年 昭和22年 日展に招待として「夷隅川の畔」出品
1948年 昭和23年 福岡県大牟田市に移住。
1949年 昭和24年 森田定市工博の後援により、三井三池鉱業所にて個展。
1950年 昭和25年 大阿蘇の風景に魅せられ、阿蘇内牧に移り、半農半画して自適す。
1951年 昭和26年 在東京の次男の児 謙を、万1才頃より、1年数ヶ月間愛育。
老人夫婦と幼児との、愛に満ちた生活も、正月10日朝、発病した、腸重積症の為め、僅か10時間
足らずで、眠るが如く他界す。その衝檄は大きかった。
東京から次男夫婦が到着する迄、眠る天使のような姿を2枚の油絵にした。
そのショックから立ち直り、孫との生活を記録するため、エッチング画集の出版を思い立ち、大分学芸
大教授武藤完一氏の指導を得て、あとはほとんど独学でエッチングの研究に没頭した。
爾来2ヶ月かかって、画集「阿蘇の思ひ出」「限定20部」を完成した。
その画集の表紙をローケツ染にするため、染色法を研究し始め、それが後日染色に親しむきっかけと
なった。
第50回太平洋記念展に「静物」出品
1956年 昭和31年 5ヶ年間の阿蘇生活を精算し、大牟田市に帰る。仝市にY5美術研修所を設立。
1958年 昭和33年 大牟田松屋に於いて、第1回淡水会展を主催。
染色法を学ぶため、二科十朗画伯につく。
小倉百人展に「裸婦」を出品
大牟田綜合美術展 洋画部委員
1959年 昭和34年 第2回蘇木会展に「かんむり鶴」出品
福岡県展工芸部に第13回「女性の目」「雲」
第14回「水面」第15回「三人」第16回「牡丹」佳作賞、「みのり」第17回「サボテン」第18回「赤松」
第19回「化粧」第20回「苔寺の池」第22回「三角サボテン」(1966年)出品
1962年 昭和37年 大牟田松屋にて、第1回芙蓉会ローケツ展主催「鳥三羽」「娘二人」出品
大牟田綜合美術展工芸部常任委員
1963年 昭和38年 福岡市三井建設ビルに移住。
1964年 昭和39年 仝 市今川町に移住。
1965年 昭和40年 福岡県筑紫郡筑紫野町に移住。
東京百人展に「立像」出品。
福岡大丸にて開催された、第1回九住会展に「ホホ白カンムリ鶴」出品。
1966年 昭和41年 大牟田松屋、第2回芙蓉会ローケツ展主催「立像」出品。
「不屈畫集」より
1967年4月24日発行・150部限定版(非売)
発行者:佐々貴 敬 福岡市千隅345番地131号 tel 福岡82-6049
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