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シーボルト建立 ケンペル/ツュンベリー顕彰碑拓
伊藤篤太郎旧蔵(伊藤圭介の孫)
価 格:\100,000 サイズ:153.5×112.0cm(55.5×103.0cm) 長崎出島にあるシーボルト建立「ケンペル・ツュンベリー顕彰碑」拓本です。 旧所蔵者、伊藤篤太郎(伊藤圭介氏の孫)氏の印と右側に朱書きがあります。 古いモノでかなりのヤケ・衣魚・汚れ・折れなどがあります。 伊藤圭介の蔵書などは、後継者の孫伊藤篤太郎や他の子孫を経て、国立国会 図書館の伊藤文庫をはじめ、名古屋大学附属図・書館や名古屋市東山植物園 などに伝わっています。 箱はありません。 ◆ケンペル・ツュンベリー顕彰碑 シーボルトが尊敬する大先輩を讃え建立したものです。 ラテン語で刻まれた碑文には、以下のようにあります。 ケンペル、ツュンベリーよ 見られよ!君たちの植物がここに、くる年ごとに 緑きそい、咲き出でて そが植えたる主をしのびては、 でたき花のかずらをなしつつあるを ドクトル・フォン・シーボルト(呉秀三 訳) ◆ケンペル(1651〜1716) ヨーロッパ各地の大学で哲学・植物学・医学などを学んだケンペルは、大使館の 書記官を経て、オランダ東インド会社の船医となり、1690年に来日。 2年ほどの滞在中、2度の江戸参府に参加したケンペルは、日本の歴史・宗教 政治・風俗・貿易のことなどをくわしく記した「日本誌」を著述。 ツュンベリーやシーボルトといったのちの日本研究家に大きな影響を与えた。 ◆ツュンベリー(1743〜1828) 喜望峰と日本の植物採集を目的にオランダ東インド会社の医師となり 1775年に長崎に来日する。 翌年の江戸参府に参加した彼は、途中で植物を採集する一方、各地の蘭学者と 積極的に交流を深めたといわれている。 約2年間の滞在を経て帰国した彼は「日本植物誌」「日本動物誌」を書き、 日本の動植物をヨーロッパに紹介した。 ◆シーボルト(1796〜1866) 1823年、日本の動植物を研究する目的で来日。 長崎の郊外にある鳴滝に塾を開き、高野長英をはじめとした多くの門人たちに 医学や動植物学を講義し、日本の蘭学の発展に貢献。 遊女/其扇(そのぎ・楠本たき)のロマンスは有名で、子どもの楠本イネは、 日本初の女性蘭方医として知られる。 ◆伊藤篤太郎(1866〜1941) 明治-昭和時代前期の植物学者。 慶応元年 伊藤圭介の孫として尾張(愛知県)に生まれる。 明治17年 イギリスに留学。 明治28年 鹿児島高等中学造士館教授。 大正10年 東北帝大講師となる。 昭和16年 死去。77歳。 博物会の雑誌「多識会誌」を編集。 著作に「大日本植物図彙」など。 『伊藤篤太郎―初めて植物に学名を与えた日本人』著者:岩津都希雄 著者:岩津都希雄(いわつ ときお) 1949年東京生まれ。医師。伊藤篤太郎の子孫。千葉大学医学部卒業。 千葉大学医学部、成田赤十字病院などの勤務を経て、 1987年より千葉県我孫子市にて岩津皮膚科医院を開業。 ◆伊藤圭介1803〜1901) 享和3年 医師西山玄道の次男として名古屋に生まれる。 父の旧姓伊藤を継ぐ。幼名は左仲、初め名は舜民、字は戴尭、のち名を清民 字圭介と改め、通称を圭介と称した。 号は錦案・真逸・堂号花潮害屋・十二花楼・修養堂・太古山樵。 水谷豊文に本草を学び、豊文を中心とする尾張本草家・博物家の会として著名な 嘗百社では,豊文門下の大河内存真(圭介の実兄)・大窪昌章(二代目三三蕎) 吉田平九郎(雀巣庵)などとともに有力メンバーの一人であった。 一方、蘭学は藤林普山・吉雄常三に教えを受け、 文政10年 シーボルトに師事、シーボルトの良き協力者ともなった。 文久元年〜3年 幕府の蕃書調所(洋書調所)物産方に出仕す。 明治03年 政府から「大学」出仕を命じられて東京に転居する。 明治04年7年 文部省に勤務。 明治08年 小石川植物園(幕府の小石川薬園の後身)に移る。 明治10年 東京大学員外教授となって引き続き小石川植物園を担当す。 明治21年 日本最初の理学博士号を授与。 明治34年 1月20日、99歳の長寿にて没。 著作: 『泰西本草名手』『日本産物志』『日本植物図説・草部イ初編』 『小石川植物園草木目録』「花型雑記」などがある。 |
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